本所・深川について
*(このコーナーを作成するようになった理由については別コーナーの(はじめに)を参照願います。) さて、「大門通り」の名前のいわれに次ぐ私の疑問である「本所・深川の呼称の範囲」についてです。 現在でも墨田区には本所1,2,3,4丁目、江東区には深川1,2丁目がありますが、時代小説にでてくる本所、深川はこのような狭い範囲ではありません。 では、墨田区全体が本所、江東区全体が深川でしょうか。 結論から言うと、江戸時代の本所は現在の墨田区の南(西)半分、深川は江東区の西半分と理解されます。 その判断の基となるのが「江戸切絵図」です。(参考:「江戸切絵図」(岩橋美術)) 「本所絵図」として描かれている範囲は、南は竪川から北は北十間川まで、西は隅田川から東は横北十間川よりもう少し先(現在の明治通りあたり)までです。 そして、北十間川より北(北東)は別途「隅田川向島絵図」に描かれています。 (現在でも墨田区の中には、向島1,2,3,4,5丁目、東向島1,2,3,4,5,6丁目があります。) 一方、竪川より南は「本所深川絵図」(表紙題名は深川絵図ですが)として描かれており、西は隅田川ですが、東はやはり横北十間川よりもう少し先(現在の明治通りあたり)までです。 ところで「本所深川絵図」はその名の通り、本所と深川が混じって描かれていることになりますが、ではその境界線はどこでしょうか。 江戸時代は現在のようにはっきりとした境界線などなかったのでしょうが、おそらく現在の新大橋通りあたりが境目ではなかったかと推測されます。 (これは現在の墨田区と江東区との境界線ともほぼ一致します。) (注:但し、江東区は横十間川より東側は亀戸も含めて北十間川まで北に広がっています。) 以上のことは、明治時代の東京の行政区分でも分かります。 明治に入ってから廃藩置県が行われましたが、その頃東京でも度々行政区画の変更が行われました。 特に明治11年には旧江戸市中の範囲を15区とし、周辺部は6郡(380余町村)に編成されました。 15区の内、現在の墨田区の南(西)半分が本所区、江東区の西半分が深川区です ちなみに昭和7年には周辺部の6郡(実際はその後の合併により5郡)を東京市に編入し、新たに20区を設置して35区としました。 この時に向島区、城東区も出来、現在の墨田区の北(東)半分、江東区の東半分に相当します。 そして、昭和22年に再度整理統合が行われ、現在の23区が誕生しました。 (本所区と向島区が併合されて墨田区、深川区と城東区が併合されて江東区となった訳です。) (参考):「東京15区と新設された20区」(図) (参考):「東京23区の誕生」(図) (参考):「江東地区の川」(図) (いろいろと川の名前が出てきましたが位置関係はこのようになっています。) [TOP] |