吉原
「吉原」の場所を聞かれて、あれっと考えてしまう人も少なくありません。 これは、現在吉原という地名は残っておらず、千束という地名に変更されてしまったからでしょう。 現在の千束3丁目、4丁目あたりが昔の吉原遊郭のあった所です。 今でも吉原の名前が残っているところといえば、「吉原神社」「吉原弁財天」「吉原交番」などがありますが、他に「吉原大門」という名前の交差点、バス停もあります。 (吉原交番が昔の吉原大門のあった所、現在のソープ街のすぐ隣にあるというのも面白いですね。) (ちなみに、「山谷」は吉原の隣(北東)に位置しますが、山谷という地名も現在は残っておらず、現在東京都が「山谷地区」と指定する地域は、泪橋交差点を中心とした明治通りの南側(台東区)と北側(荒川区)で、台東区日本堤1・2丁目、東浅草2丁目、清川1・2丁目、橋場1・2丁目、荒川区南千住1・2・3・5・7丁目が該当します。) さて、昔の吉原ですが、江戸切絵図では「今戸箕輪浅草絵図」に見ることができます。 これをもう少し拡大してみましょう。(「今戸箕輪浅草絵図拡大図」) この絵図をみても分かるように当時の吉原の周囲は全て田圃でした。 また、吉原の遊郭はこのような感じでした。(「吉原遊郭図」) 吉原の歴史: 江戸幕府開設間もない1617年、幕府公認の吉原遊郭が設置されましたが、当初場所は日本橋(現在の日本橋人形町)でした。 明暦の大火(1657年)により吉原遊郭も焼失し、再建するにあたり、日本橋界隈は当初とは比較にならないほど市街化が進んでいたので、浅草の田圃の中に移転を命じられました。 通常、この浅草の先にある遊郭を吉原遊郭と呼んでいますが、正式には以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方を新吉原と呼んで区別しています。 大門: 遊郭への入口にあり、治安目的の他、遊女たちの逃亡を防ぐため出入口はこの大門のみとなっていた。 お歯黒どぶ: 遊女たちの逃亡を防ぐため遊郭の周囲に巡らされた幅五間(9m)の溝(どぶ)で、出入口は大門のみで外界と遮断されていた。(幕末に幅二間となった。) 五十間道: 土手通りから遊郭の大門に至る道で、五十間(90m)あったことからこの名前が付けられた。街道から遊廓を見通せないようS字状に道を付けたとされている。 衣紋坂: 五十間道の入口付近にある坂で、遊郭に行く客がここで衣紋を整えたということで付けられた名前。 見返り柳: 衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったということで付けられた名前。現在は跡地に石碑が建っており、名前の由来の説明版もある。現在ある柳の木は昭和になってから植えられたもの。 *以上の場所の現在の写真はこちらをご覧下さい。 [写真] [TOP] [地図] [写真] |